ダーク ピアニスト
―叙事曲2 Augen―

第3章


 次の日、ルビーは一日中ピアノを弾いていた。誰に聞かせるのでもなく、自分自身のためでもない、ただ心から湧き出る想いを綴るように……。
(何だろう? 指先が熱い。心が熱い。熱い。熱い……)
鮮血が迸るようにメロディーが溢れ、言葉よりも早く紡いでいく……。高速で回る糸車のように鮮やかな模様を織り上げていく。もう一度出会いたい夢。もう一度その手に抱いて愛しさに涙したくて、彼は時間を早回しするようにピアノを弾いた。
(ここにいたら思い出せそうだったのに……)
アンティークな装飾や古い記憶が染み込んだ壁や石材が、彼に昔の記憶を思い起こさせようとするのだ。
(思い出せそうだったのに……)
しかし、彼はその指を止めた。そして、立ち上がって暮れ掛けた夕闇の光が差し込む窓を見た。

「風……」
ルビーはその窓に近づいた。陰鬱な光。怠惰な時間……。そして、憂鬱。
「ギル……」
その日も彼は留守だった。ブライアンに依頼された仕事の下調べがあるからと朝早くに出て行ったまま戻って来ない。
――おまえは家にいろ
彼が言った。
――微熱が続いているから……
そうギルフォートは言うのだ。
――それに、ここはあまり治安がよくないから

「それって、僕のことを心配してくれているの? それとも、単に子供扱いしてるだけ?」
見上げると、木彫りのオルゴール人形が寂しそうな顔で棚の上から見下ろしている。ルビーはそっとそれを下ろすとハンドルを回した。ギーッと少し軋んだ音をさせただけで、メロディーは聞こえない。それはすっかり壊れてしまっていたのだ。ルビーはその人形をピアノに乗せた。
「君の代わりに僕が弾いてあげる。そしたら、寂しくないでしょう?」
しかし、人形はいつまでも悲しそうなまま黙っていた。
――壊れてしまった人形は、いつか捨てられてしまうから……
それは何の物語だったろう。ルビーはその人形をそっと撫でた。
「僕は捨てたりしないよ。だって、捨てられた人形の悲しみを、僕は一番よく知ってるんだもの」


 「人形か……」
暮れ掛けた空の下、灰色の街を行き交う人々の雑踏。通りの向こうには一人のパントマイマーが人形の役を演じている。ギルフォートはそんな彼をちらと見て、すっとポケットから煙草を取り出すと口に銜えて火を点けた。と、そこへ黒いコートの男が近づいて言った。
「すみません、火を貸してもらえませんか?」
「どうぞ」
ギルフォートは男のそれに火を点けてやる。と、その手に小さな紙片が渡される。ギルフォートはそれをライターと一緒に握り込むと無造作にポケットにしまった。
「どうも」
男は礼を言うと煙を吐き出して低く呟く。
「ルノアール13番地」
そう言って男は立ち去った。紫煙がゆっくりと流れて行く。彼はじっとその行方を目で追った。個人的な仕事の依頼は引き受けない。だが、今回のそれは特別だった。時を経て、皮肉な縁で結ばれた陽炎のように揺らめく淡い糸。それは一瞬だけ繋がって、そして完全に断ち切られるために存在する儀式……。乾いた心にカサカサとポケットの中で紙片が擦れる。ギルフォートは何度か煙を吐き出すと靴先で火を消した。

そして、通りを渡るとパントマイマーに近づいた。何人かの人々が立ち止まり、熱心にそれを見ている。ギルフォートも一瞬だけ立ち止まり、さり気なく彼の胸ポケットに折り畳んだ紙幣を突っ込んだ。が、それでも男は動かず、人形に徹している。が、唇を一切動かさずに人形は言った。
「赤毛のリルケ」
彼らの前を自転車に乗った子供が通り過ぎていく。
「お兄ちゃん、見て! すごいんだよ。あの人、さっきから全然動いていないんだ」
背後で子供の甲高い声がして、あとから来た子供の兄と母親に告げる。

――ねえ、見て、お兄ちゃん。あの人、さっきから全然瞬きしないんだ。まるで本物のお人形みたいだよ

まだ自分の足で歩けた頃、街のパントマイマーを見て弟が言った。

――すごいね、ギル。僕もやってみようかしら?

何年か前、催しものの会場で同じようなパフォーマンスを見てルビーが言った。

――人形が人形を演じてどうする?
――だから、人形の気持ちになってみるんだよ

「どんな気持ちだ?」
ギルフォートは人形を演じる男に訊いた。しかし、そこにあるのは沈黙だけだ。何人かの者達が人形にチップを与え、そこを立ち去る。
それから、また何人かの通行人が足を止め、彼の演技に見入っている。

――僕の人形……
壊れてしまった人形を抱いてルビーが泣いていた。
――これは……もう捨てるしかないだろう
それは修復しようのない状態だった。
――ギルもなの?
首の取れた人形を突き出して言う。
――壊れてしまった人形は捨てろって言うの?
――仕方ないだろう
――ならば、もし……
その先をルビーは言わなかった。が、光を滲ませた黒い瞳が問いかける。
――もしも壊れてしまったら、僕も捨てるの?

もしも、そう問われたならば、自分はどう答えたのだろう。Jaか? Neinか? それとも……。吹き抜けていく風……靴先で舞う一枚の枯葉……。飛ばされて車道に落ちたそれの上を通り過ぎる車。
「Ja.(そう)……だ」
そう言うとギルフォートはそこを離れた。


 枯葉が敷き詰められたような歩道でルビーは風と戯れて踊る。ふと舞い上がった落ち葉の一枚を彼は追い掛けて走る。
「あははは。あはは。待ってよ、落ち葉。僕と遊ぼう」
目の前のそれを掴む。と、それはぱらぱらと砕けて散った。
「あ……」
そっと掴んだつもりだったのに、それは形を失った。ルビーがその手を広げると手の中に残った葉っぱの残骸がまた風に飛ばされて行く……。
「行っちゃった……」
風の行き先をルビーは知らない。
「人は死ぬと天国へ行く。けど、花や木や動物は一体何処へ行くのかしら?」
さり気なく呟いたルビーの問いに、思いも寄らぬ返答が返って来た。
「もちろん、彼らは皆天国へ行くさ」
背後の声に振り向くと、そこにはアルモスが立っていた。

「本当?」
「ああ。動物や植物は人間よりずっと行いがいいからな。無条件で天国へ行ける」
「それじゃあ、人間は?」
アルモスはポケットから出した酒瓶のキャップを開けて、ぐいと一口飲んでから言った。
「多分、汚れなき魂を持った奴だけが行ける」
それを聞いて、ルビーは悲しそうな顔をした。
「それなら、僕は行けそうにないや」
「心配するな。おれも緑の目の狼野郎も一緒だ」
「ギルも?」
「そうさ。人間って奴はそうそういいことばかりしていられるもんじゃない。大抵は堕ちて行くものだからな。時代に翻弄され、流されて気がついた時にはいつも手遅れになっちまう」
「ふうん。それって枯葉みたいだね。体は朽ちて砕けて飛ばされる。そして、魂だけが抜けて、そして……」
「自由になる」
アルモスが言った。
「え? でも、さっき天国へは行けないって……」
「そう。その代わり自由になって何処へでも飛んで行けるようになる」
「母様のところにも?」
「ああ……。だが、気をつけろ。一つだけ忠告してやる」
「何?」
「魂は自由だが、心を失くせば本当にこの枯葉のように散って二度と戻って来れなくなっちまうってことさ」
「わかった。気をつけるよ」
ルビーが言った。

「ところで、こんな時間に何処へ行くんだ?」
「オイルを買いに行くの」
「オイル?」
「うん。オルゴールの人形が上手く動けなくて困ってるの。前にも錆びて動かなくなっちゃったネジにギルがオイルを塗ってくれて、そしたら、ちゃんと動くようになったの。だから、きっとオイルを塗ったら直るんじゃないかと思って……」
「奴はいないのか?」
「うん。今日は朝から出かけてるの。僕、一人でずっと留守番ばかりでつまらないんだもの」
ルビーが不服そうに言った。
「そうか。欲求不満か。なら、いいところに連れてってやる」
「いいところって?」
ルビーが顔を輝かせて訊く。
「酒と女と花のある場所」
アルモスが答える。
「それって楽しい?」
「ああ。この世の天国みたいなところさ」
「ほんと?」
「来るか?」
「うん! 僕、行く」
そうして、二人は連れ立ってモンマルトルの丘へ続く小路へと入って行った。


 ――ギルフォート

そう呼ばれた気がして彼は振り返る。が、そこに彼女の姿はない。そこにはただ葉のない枝を天に向け、寒風に身をさらした幹の群れが続くだけ……。そんな閑散とした幹の間から吹く風が、ふと過去の記憶を運んで来た。

――ミヒャエルを殺したのは鳥だ! おれが突き落としたんじゃない!

14の時だった。空が見たいと言った弟を建物の屋上へ連れて行った。当時、ギルフォートはギムナジウムの4年生。弟のミヒャエルは8才だった。ミヒャエルは生まれつきハンディキャップのある子供だった。ほとんど歩けず、車椅子の生活で、学習の面でも発達障害があった。だからといって、彼が弟を邪険にしていた訳ではない。ミヒャエルを施設に預けたのは、両親が亡くなり、まだ学生だった彼に養っていく力などなく、それは止む無いことだったのだ。親戚は誰も彼らを、ハンディのある弟を引き取ろうとはしなかった。だから、彼は兄弟二人だけで何とか将来を切り開こうとしていたのだ。ところが、ある日、そんな弟が空を見たいと言い出した。

――お兄ちゃん、ぼくね、空が見たいの。枠も何もない空だけが見えるそんなところへ連れて行って……

体の弱い弟が無理せず、願いを叶えられる場所……。それがあのビルの屋上だった。

――ありがとう、ギル。また連れて来てね

ミヒャエルは最高の微笑みで兄を見つめた。ところが、ミヒャエルが宝物にしていたカレイドスコープがその手から転がった。それは弟の誕生日にギルフォートが贈った物だ。それを彼は何よりも大事にしていた。
「落ちちゃった……」
泣きそうな顔をする弟に彼は言った。
「泣くな。すぐにお兄ちゃんが拾って来てやる」
そう言うと彼は車椅子から離れた。その時、彼は確かに車椅子のブレーキを掛けていた。そして、数メートル先に転がったそれを掴んだ。その時。頭上を鳥の群れが通った。

「見て! お兄ちゃん。鳥がいっぱい!」
弟が身を乗り出して叫んだ。振り向いたその顔は、うれしそうに笑っている。
「そうだね」
ギルフォートも微笑み返す。幸せだった瞬間。そして、悲劇を止められなかった瞬間……。どういう加減か突然、ストッパーが外れ、車椅子が前方へ滑り出したのだ。
「ミヒャエル!」
慌てて追い掛けた彼の眼前で、それは視界から消えた。
「ミヒャエル!」
伸ばした手の指先が微かにバーに触れた。が、掴み損ねたそれは永遠に彼の手の届かない場所へ去ってしまったのだ……。柵もなく、安全対策のされていないそこは立ち入り禁止になっていた。が、何故か屋上へ続く扉に鍵は掛かっていなかった。頭上で鳥が鳴いていた。その影が巨大な怪物のように周囲から光を奪った。

「Nein!」

彼の手から転がったカレイドスコープが、悲鳴のように鳴った。鳥の羽ばたきと鳴き声に消されて頭の中は空っぽになり、雷に打たれたような衝撃が取り返しのつかない後悔を生んだ。
「ミヒャエル……!」

――見て! ギル。鳥がいっぱい!

 それから、彼は鳥を憎んだ。そして、彼の言葉を信じてくれなかった人間すべてが憎しみの対象となった。
――本当はおまえが弟を殺ったんじゃないのか?
――ハンディのある可哀想な弟を
――邪魔になって殺ったんだろ?
心ない者達の無責任な中傷といやがらせが続いた。噂は両親や父が経営していた会社の名誉を汚し、彼自身の人格さえも否定した。


 「すげえな。またギルフォート グレイスが1番だ」
成績優秀者の氏名が公表された。しかし、いくら1番を取ってもギルフォートには、もはや高揚も何もなかった。奨学金を得て医者を目指す。それは、彼自身のというより、弟のためというのが本音だった。医者になって弟の病気を治す。そして、自分達のことを馬鹿にしてきた連中を見返してやる。自分が優秀であることで両親や弟の名誉を挽回することが出来る。そう信じていた。しかし、その弟を失い、両親もいない。いくら成績優秀者に選ばれても、もう彼と共に喜びを分かち合ってくれる者がなかった。グレイスの会社が倒産したあと、友人は皆、彼から離れてしまった。兄弟はこの2年間、ずっと二人だけで寄り添って生きて来たのだ。が、その弟も死んだ。それでも医者になるべきか、彼は迷っていた。

「ふん。またギルフォートが1番だって? あいつ、人殺しの医者にでもなるのかね」
背後で声が聞こえた。グレイス コーポレーションとは商売敵のヘッツァーブレード カンパニーの息子ヨハン アーノルド ヘッツァーだった。
「どういう意味だ?」
ギルフォートが問う。
「病院に欠陥品の医療機器を大量に売りつけて、患者を殺した会社の息子だからな。おまえなら、それくらいのことやりかねないと思ってさ」
ヘッツァーが言った。
「粗悪品ばかり作っている会社では、息子の品質も粗悪品らしいな」
ギルフォートが言い返す。
「何だと?」

二人は親同士の会社がライバルだったということもあり、ギムナジウムに入る前から犬猿の仲だった。何をやってもギルフォートに追いつくことの出来ないヘッツァーは彼に嫉妬し、憎しみの感情さえ抱いた。ところが2年前、グレイスの会社が倒産し、立場が逆転したと見るや、仲間や上級生に根回ししてギルフォートを孤立させ、学校から追い出そうとした。しかし、それは上手く行かなかった。だが、今度ばかりはヘッツァーにとって有利な条件が揃っていた。彼は強気になっていた。

「賄賂を贈って無理に懐柔したところで、粗悪な製品ばかりでは経費が嵩んで病院の経営が苦しくなるばかりだ。いずれ監査が入ればおまえのところの製品など買う病院はなくなるさ」
冷ややかな目をしてギルフォートが言う。
「取引を円滑に進める賢い方法をおれの親は熟知しているんだ。おまえの親のように馬鹿じゃないってことさ」
ヘッツァーがせせら笑う。

「何が言いたい?」
「可哀想に馬鹿な親を持った子供は不幸になるって訳さ。あ、そういや、本当におまえの弟は馬鹿だったっていうしな。おまえの気持ちもわからなくもないよ。あんな馬鹿な弟がいたんじゃ足手まといになるだけだもんな。本当はおまえが殺ったんだろ? でも、黙っててやるよ。おれ達、友達だからさ」
「黙れ!」
「おや、怒ったのかい? そりゃ悪かったよ。いくら本当のことだからってみんなの前で君に恥をかかせることはなかったね」
ヘッツァーの取り巻きがニヤニヤとした顔で成り行きを伺っている。
「でもさ、結果的にはよかったんじゃないの? 邪魔者が消えてさ」
「この豚野郎!」
ギルフォートがヘッツァーの顔面を殴りつける。

「殴ったぞ!」
「ギルフォートが先に手を出したんだ!」
周囲の者が騒ぎ出す。
「へへ。悔しいのか? なら、もっと殴ってみろよ。暴力事件を起こせば、おまえはこの学校にいられなくなるんだからな」
「貴様っ!」
更に殴りつけようとするギルフォートの体を抱え込むように誰かが止める。しかし、それを拒み、突き飛ばすと彼はヘッツァーの襟首を掴んだ。
「見ろよ。これがこいつの本性さ。感情で暴力を振るう。出来損ないの弟と同じ血が混じっているんだからな。あはは。もっとも親だってろくな死に方しなかったもんな。どうせおまえも……」
皆まで言わせず、彼は何度もその顔面を殴りつけた。

「やめろ! ギルフォート」
「構わねえ! こいつをやっちまえ!」
それはたちまち複数の生徒達が混じっての乱闘騒ぎへと発展した。しかし、それはギルフォートにとって圧倒的に不利だった。大半の生徒がヘッツァーから買収されて彼の味方をしていたからだ。両腕を押さえられ、唇の端から血を流しているギルフォートを見て、ヘッツァーが言った。
「へっ。いいザマだな、ギル。どうだ? これからはおれの手下になるってんならこの辺で勘弁してやらねえこともないぜ」
「……誰が……!」
ギルフォートはそいつの顔に唾を吐いた。
「この野郎!」
カッとなったヘッツァーがポケットからナイフを取り出して振り翳す。と、ギルフォートは向かって来るヘッツァーの股間を蹴った。

「うげっ……!」
前のめりに倒れそうになりながら呻いている彼の顔面を更に蹴りつけようとするギルフォートを引き離そうとして彼を押さえつけていた生徒が腕の力を僅かに緩めた。その瞬間。隙を突いてギルフォートは右側のそいつを突き飛ばした。それから、左側の生徒に向き直ると脛を蹴り、胸倉に拳を叩きつける。と、体勢を立て直したヘッツァーが憤怒の表情で立っていた。握られたナイフが怪しく光り、殺意さえ感じる憎しみが滲んでいた。
「よせ」
ギルフォートはその手首を掴んで言った。
「うるせえっ! 初めっから目障りだったんだ。おまえさえいなければ、おれが1番になれたのに……! おまえさえいなければ……」
力ずくで押し切ろうとするヘッツァーの攻撃を何度もかわし、組み合っているうちに刃先がヘッツァーの顎に辺り、血が噴出した。
「ヨハン!」
「大変だ! ギルフォートがヨハンを刺した!」
「人殺し!」
それは不可抗力の事故だった。しかし、誰もがそうは言わないだろう。彼は学校を出て行くしかなかった。


 ――あいつは人を殺す医者にでもなるのかね

 落ち葉の囁きが繰り返す。乾いたそれを踏みしめる度、記憶の幾つかが壊れて行く……。そんな気がした。

 「ヨハン アーノルド ヘッツァー……」
目的の場所に彼はいた。その男は子供の頃の面影のまま、相変わらず狡猾で傲慢な目をしていた。
「おまえは……」
ヘッツァーは訝しそうな表情で彼を見た。鋭い眼光を放つ緑色の瞳に銀色の髪をしたその男を……。それから、はっとしたように右手が動いて下顎に触れる。そこには微かに傷跡が残っていた。
「まさか、おまえは……。あのギルフォート グレイス……!」
驚愕したようにヘッツァーが言った。
「久しぶりだな、ヘッツァー。おれの名を覚えていたとは感心だ」
目を細めて彼は言った。
「な、何の用だ、今更……」
「会社は順調のようだな」
「あ、ああ。新しく開発した人口腎臓の濾過装置が順調でね」
ヘッツァーは世間話のように言った。単に彼が偶然出会って声を掛けて来たのだと思ったようだ。

「裁判になっているようだが……」
ギルフォートが言った。
「ああ。患者が死んだのはうちの製品の欠陥のせいだと妙な言いがかりをつけられてね。だが、裁判では勝つさ。問題ない」
「根回しだけは万全だという訳か。昔から変わっていないようだな」
「はは。商売上手だと言ってくれよ。ところでおまえは今、何をやっているんだ?」
「医者だ」
ギルフォートが言った。
「ああ、そういや、おまえは昔から医者になるんだと言っていたものな」
「そう。おまえの言ったことは正しかったよ」
ギルフォートはすっと懐に手を入れて言った。
「え? おれが、何か言ったか?」

――あいつは人を殺す医者にでもなるのかね

風が木霊のように通り過ぎる。
「おれは、おまえが言った通りの医者になったんだ」
「……!」
額に拳銃を突きつけられてヘッツァーは蒼白になった。
「ギ…ル……」
臆病な瞳が慈悲を請うように緑の目の男を見つめた。が……。
「社会の病巣を取り除く、正義の医者にな」
ヘッツァーの唇が何かを言おうと微かに動いた。が、その瞬間。容赦なく弾丸は発射され、重厚から乾いた硝煙の煙が微かに立ち上っている。そうして、また一つ、彼は社会の病巣となった男を取り除いた。
(ヨハン アーノルド ヘッツァー。父親の会社を相続したあと、コスト削減と称し、粗悪な欠陥品を医療現場に大量に納入。事故が起きても尚、生産を続け、回収も修繕も行わず、死亡、若しくは重篤な後遺障害を残す被害者を多数出した。結果、複数の遺族や患者自身から裁判を起こされるが、金のばら撒きと予ねてからの癒着により、被害者の大半が泣き寝入り。一方で社長であるヘッツァーは裁判中であるにも関わらずパリで豪遊……か。全くのいいご身分だ)
彼はふと空を行く鳥の群れを見つめた。

――見て! ギル、鳥がいっぱい

本来なら引き受けない個人の依頼を受けたのは、そんな自らの過去の柵を断ち切ろうと思ったからだった。17年経ってもヘッツァーは反省することなく、親がやって来た過ちを継ぎ、自らもまたその泥沼へと漬かって行った。その影で犠牲になり、泣いている者達の声など聞かず、自らの強欲へと堕ちていったのだ。
(人を泣かせば、確実にそいつも地獄に落ちる。ならば、おれも天国には行けそうにないな)
寒風にさらされて葉の落ちた樹木が乾いた心で見つめている。

――ギルフォート、鳥を撃っては駄目よ

遠い記憶の何処かでルイーゼが囁く。
「ギルフォート」
不意に呼ばれて振り向くと、そこには医者が立っていた。
「ドクトル ウェーバー」
「君に話があるんだがね」